何某日和

「カメラ」のち「ハンダゴテ」ところにより「プログラミング」 ── そんな私“かめきち”のウェブサイト

研究ミーティング [2012.07.21]

目次

 2012年7月21日の研究ミーティングで触れられた学び事について外在化しておきます。

情報洗浄理論

汚れた容器がある。その横にはコップ1杯分の水もある。その水を使って容器を洗いたい。それも、できるだけ綺麗に。

 ミーティングの冒頭で師に問われ、何も考えず即答で「水をすべて入れてフリフリします」と。師に笑われた後、次のようなことを諭していただきました。(実際の表現とは一部異なります)

水を少し入れて洗い流し、また水を少し入れて洗い流し、これを繰り返す。一度にすべての水を用いて洗浄するのとでは、どちらが綺麗になりますかしらん?

 前者ですかねぇ...。一気にすべての水を使ってしまってもある程度綺麗になるとは思いますが、フリフリした後にはそれなりに濁った水になっているはずですよね。 その汚い水を流しただけでは「ハイ、綺麗になりました。」とは言い難くて、もう一度、少量でも良いので水に通したいものです。
 そこで、最初から水をこまめに使うようにして、少しずつ着実に綺麗にしていこうというのです。きっと最後の洗浄に使う水は、洗浄前と洗浄後とでは、ほとんど色も変わらないでしょう。 いわば、容器が綺麗になったことの保証というか。

 おそらく、私の研究活動への助言だったのだと思います。現状「あれもいいな」「これもできるな」と、様々な方向に手を伸ばしすぎて、次の一歩に戸惑っていたところ。 一気に解決を図ろうとして、整理できたのか否かハッキリしないような結末を迎えるのではなく、 少しずつ余分なものを取り除いたり解決したりして、研究の路線を絞っていきなさい、ということだったのでしょう。師の言葉、痛み入ります。。。

 しばらく前のパワーランチにて「片付け・整理術」に纏わるプレゼンテーションがありましたが、そこでも、机上の整理を例として 「まず片付けられるものから少しずつでも片付けるべし」という言葉があったように思います。これは自分も気をつけている点で、最近ようやくできるようになってきたことでもあります。 研究活動でも同じように、この成果を存分に活かしていきたいものです。

(補足)スパゲッティに関するアンケート調査を実施したことがありますが、その際、お世話になっている先生から「被験者リソースを大事にしなさい」と諭されたものです。 少人数に対して先行実施し、アンケートをより良い形にして、また少人数に実施して改良して。それを終えてから本調査に乗り出すのが一般的だ、と教わった時には既に遅かったのですが、 これもまさに情報洗浄ですね。

思考実験 ─ 思考と試行

 師は以前にも、このように仰いました。

今、自分が取り組んでいること。その道を極めたいのならば、一定期間だけ、その取り組みに必要な道具を断ってみなさい。 さすれば、その道の真意を知ることになるでしょう。

 若き頃、師はプログラマの身でありながら、数ヶ月もの間コンピュータを用いたプログラミングを断ったのだそう。 そして、その中で得るものがとても多かったため、是非実践してみなさいと説かれたのでした。

 確かに極めたい道はあるのですが、その思いがあるゆえに断つ勇気がないのです。結局、その言葉から数ヶ月ほど経ちましたが未だに実践した試しはありません。 今回のミーティングでは、この旨を改めて説法いただいたのですが、少しだけアプローチが異なりました。

 昔は、マシンを一度動かすだけでも相当のコストがかかったため、まずは机上で全てを組み上げて、その後に実機で動かしていた、と。 思考(考えを巡らせること)と試行(とにかく手を動かして見ること)とが、バランスよく循環していたのです。 別の例ですが、当時、現地にマシンがなかった中国人留学生も、日本でマシンに触れてから手が止まらなかったのだそうです。 留学前に積み上げた相当の思考量を一気に試行に移すことができ、楽しくて仕方がなかったのでしょう。

 そういえば最近乗るようになったバイクも同じでした。買うまではワクワクしていて気持ちも抑えられず、とにかく頭の中だけで 「バイクであそこ行きたいな、ここも行こうかな」と思考を働かせていたものです。バイクを買った今となっては「よくあれほどまで思考に走れたものだ」と、自分のことながら感心するほどです。 バイクを手に入れてしまって、気持ちが落ち着いてしまったというか、躍起になれなくなったというか...。

 先の中国人留学生に比ぶれば、マシンはいつも目前にあって、いつでも試行ができてしまって、十分な思考量も積まないまま手を先に動かして。 最近では思考さえ止めてしまって、試行すべきこともわからず、マシンの前で時間を浪費してしまっているのだとか。
その通りです。試行すべきことを思考する、その前に手を動かそうとしているのです。そりゃ、ろくに動くはずもありません。(俗に言う「スランプ」ちうもの。) 道具を断つ意味はそこにあったのですね。(一回目の説法では思い至らなかったけども、今回ようやく...。)

 思考実験という「仮説」と、試行実験という「実証・検証」。両者を交互にバランスよく実践するのが、道を歩くための基礎。 思考停止に悩む今、試行の道具を手放すこと。此れ己の訓戒とす。

(この記事は、東京-京都の高速バスの車中で書き認めました。ノートパソコン(試行の道具)はバスのトランクの中。止む無く思考作業に徹していたのですが、まあ作業が捗るったら...。 この勢いでしばらくパソコンから離れてみたほうが良いやもしれません。(その期間中に他の道[1]に集中しだすと、あまり意味がないとは思いますが...。))


[1] どうでもいいことですが「他の道」で思い出しました。バンド活動でオリジナル曲を作ろうとしていたのですが、なかなか制作状況は芳しくなくて...。 きっとこれも同じで、手元にギターを置くが故に思考が働かず、曲を作ることができなかったのでしょう。思考だけで...というのも、まだ難しいので、思考が先行することを意識しながら作曲に取り組んでみようと思います。

人称の行き来 ─ オブジェクトの実在感(変身!)

1人称の視点:自分自身を意識する視点
2人称の視点:目前の相手に対して意識する視点
3人称の視点:他者を外から傍観している視点。

 師曰く、母体から飛び出したばかりの新生児は、3人称の視点で世界を見ているそうです。 「両親に挟まれて自分に何かを話しかけている」とは感じず、「喋っている人が二人いる」という感覚なのだとか。 この時点ではまだ「自分」という概念を持たず、あくまで他人事でしかありません。
「物心のつく頃」がちょうど2人称の視点を持つ頃なのかもしれません。話しかけてくる存在(相手)があって、何かをしたり何かをされたり、という状況を理解できるようになります。
やがて訪れる思春期では、己とは何たるものかを考える時期、つまり1人称の視点を得る頃ですね。

 時期の詳細はともかく、3人称・2人称・1人称の順に視点を得ていったわけですが、いかんせん視点が固着しがちなこの頃です。 思春期からつい最近まで、ずっと1人称してんだったのですが、ソフトウェア工学IIやらプロジェクト演習やらで愚かさに気付かされ、自分の居場所を確認すべく3人称視点を会得したのでした。 その頃から3人称視点に依存して「メタ」だとか何とか言って、視点変換を怠っていました。いやはや情けない...。

 大切なのは、これらの人称を自在に行き来すること。あるときは、空の上から自分を眺め、またある時は対象そのものに変身する(なりきる)、まさに人称の行き来です。 クラス構造の全体像を3人称で見て、自分の居場所を把握する。また、対象のクラスに変身して、自分は何をすべきか、何ができるか、誰とつながっているかを把握しながら変貌を遂げてゆく。 それぞれの人称でしか知り得ないこと・成し得ないことがあるので、人称を行き来できるようになりませう、というお話でした。